S君のカウンセリング事例、2回目です。

今日は母上がお書きくださったレポートをご覧ください。

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(母上のレポートここから)

― セラピーを受けるまでの経緯 ―

2014.9~(中2秋)

・微熱、咳、頭痛など、普通の風邪で2~3日欠席。病院で抗生剤を処方され熱は下がったが、鼻炎とだるさは続いていた。

週末の部活(野球)の練習試合に参加する為グラウンドに送ったが、頭痛で車から降りられず泣き出してしまう。その時何か心の問題ではないかと直感する(その後部活には1回出ただけで、結局卒業まで休部となった)。

生徒会の役員として忙しく準備をした体育祭が終わって間もなくの頃だった。

・鼻炎での病院通いは続いていたが、待合室でもぐったりとして横になっているほどの状態。朝の様子などから〝うつ〟を疑い、精神科の受診を希望したが、小児科でも思春期外来があるとのことで予約をする。

そこでは血圧の変化の検査などから「起立性調節障害」と診断され、血圧を下げる薬や疲労回復の漢方、頭痛薬を処方された。どれもほとんど効き目はなかった。

・とにかく休むことを指示され、本人が起きて〝学校に行こう〟と思うまでは寝かせておくことを薦められた。長く眠るのは身体が必要としているからとのことだった。

その頃はほとんど一日中ぐったりし、常に頭痛もあった。それは平日も休日も変わりはなかった。ただ、イライラして周りに当たったりなどの人格の変化のようなものはほとんどなかった。

2014.12~(中2冬)

・疲労感が続くことから、「慢性疲労症候群」と診断され、同時に栄養状態の検査から、「低血糖症」とも言われ、高濃度のビタミンBのサプリメントの服用を始めた。ビタミンBの消耗が激しかった為か、服用してしばらくすると頭痛が軽減してきた。 

栄養状態が良くなってきたからか、冬休みまでの2週間ほどは通常の授業を受けることができた。

冬休みに入り、このまま治るものと油断してしまい、親戚の人たちと泊まりで出かけるなどしたことで体調が元に戻ってしまった。休みが明けても疲労感は回復せず、登校できないまま冬が過ぎた。

修学旅行も行きたい気持ちはあったが、無理はできず不参加となった。

その頃ホルモンの検査をし、「コルチゾール」というホルモンがほとんど一日中でないことがわかり、「副腎機能不全症」との診断名がついた。専門の病院で害のないタイプのホルモン剤が出された。必ず治るとは何度も言われた。

2015.4~(中3春)

・新学期に一日だけ登校したが、その後は欠席か学習室(通常の授業が受けられない子が勉強をみてもらえるクラス)に1~2時間行く日が続いた。

体調は少しずつ良くなったが、少し無理をすると(勉強など)次の日はぐったりとして何も手がつかないということの繰り返しだった。

運動は本人にとっては比較的ストレスにならず、体調が良い日は歩いたり、バトミントンをしたりできた。

2015.10~(中3秋)

・体調を改善する為の服薬や栄養、休養や生活習慣の安定など、できるだけのことはしながら本人が教室に行く勇気がもてるのを待った。夕方は散歩をしながら本人の話を聴くようにした。

担任の先生とのやりとりで、11月の初めから通常の授業を受けるということを自分で決め、実行することができた。

その後は時々1~2日休みを入れながらも冬休み明け頃までは楽しそうに通った。無理さえしなければもう大丈夫という風に見えた。

2016.1~(中3冬)

・続けて通ったことからの疲れや受験のプレッシャーからか、また朝のだるさが強くなり起きれなくなった。

学習室で授業を受けるのはもういやだという理由で、朝起きられないとそのまま一日休むことになり欠席の数字が増えるばかりだった。

2月になっても疲労感はあまり軽減せず、学校に行くことよりも2日間ある受験をやり終えることと、卒業式に出ることが目標となり登校はあきらめざるを得なかった。

・高校は幼なじみのT君と同じところに行きたいと希望していた。倍率が高いので可能性は低いことは伝えたが、本人の意向で受験し、不合格となった。 

その後公立高校の2次募集を受け今に至っている。

<本人にとってマイナスの記憶と思われること>(母から見て)

―乳児期―

父親(本人が2歳の時に離婚)は堅い仕事の反動からか、帰宅すると毎日かなりの量のアルコールを飲み、怒鳴り声を出すことはよくあった。

自分が長男として育てられたからか、発達が早かった兄と比べて遅めの本人に、「できそこない」「本当に俺の子か」などと心ないことばを浴びせていた。本人はことばの意味はわからないが、そのことばを本人が物心ついた時に聞かせてはいけないとずっと思っていた。

―幼児期―

母と兄(3歳上)との3人暮らしの中で、自分のめんどうをみたり、よく遊んでくれる兄をとても慕って何でも真似をしていた。

月に一度の父親との面接の時に、父は兄の方を話し相手することが多く、自分は父親が撮りためていた大河ドラマなどのビデオを見せられていたことがあったと本人は言う。
父親のことを特に慕っている様子はなく、面接の日を楽しみしている様子もなかった。

―小学校3年~ ―

・近所の子が入るのにつられて、やったこともない少年野球チームに入団する。運動は好きだが、野球が向いているとは思えず、むしろ失敗して監督に怒鳴られることの方が多かった。

失敗して怒られると思うと緊張して硬くなるからか、6年生の時に関節を故障し、投げることに制限が必要になった。やっと慣れてきたポジションも後輩に奪われ、くやしい時期でもあった。

その分バッティングをうまくなろうと素振りをしたりなどして頑張った。

・兄とカードゲームなどをして遊ぶことが多かったが、あまり要領のよくない本人は、よく「バカ」などと言われることがあった。

本人が自信をなくすからそれは言うなと兄にも注意をしていた。本人の中に兄にはかなわないという気持ちがあり、何か言われても反発することはほとんどなく、言われてめそめそと泣くことが多かった。

兄とは取っ組み合いなどの喧嘩はしたことが無かった。

・4年生の冬に、クリスマスの小遣いで買った大事なカードを友達に盗まれるという事件があった。

野球のチームメイトだったが、妹を連れて遊びに来ていた。友達が帰る直前まであったカードが何枚か(それもめったに出ないものばかり)が無くなり、すぐにその子の家に行き探してもらったが、勘違いだろうという顔もされた。

妹がとったんだろうと本人は自分を納得させたが、しばらくは泣いていた。

―中学1年―

・肘の心配はあったが、野球の仲間が好きで、投球に制限があるまま入部する。走るのは得意で、厳しい練習にもついていけたが、キャッチボールなど、皆と一緒のメニューができないことに引け目やくやしさはあった。この頃先輩のことばにも過剰に反応しがちだった。

・兄が同じ中学で生徒会の役員だったこともあり、自分もいい成績をとったり、生徒会に入りたい気持ちがあり、部活以外にもかなり無理をしていた。
週2回の塾やバッティングセンター通い、素振りや腹筋などの自主トレなど。自分の思うようにできないとあせって泣き出すこともあった。

―中学2年―

・学校生活自体は楽しめているように見えたが、投球が思うようにできないことやそれを分かってもらえないこと。(投げようとするとまた痛めるんじゃないかと思ってこわくて思い切り投げられない)朝練や夏場の練習がつらくなってきている様子はあった。
そして夏が終わる頃限界となった。

<補足>

・胎児期(妊娠3~4ヶ月時と6ヵ月時)に、流早産の危険性があり合計6週間の入院と出産までの安静があった。子宮の収縮を防ぐ為収縮抑制剤を24時間投与する日が長く続いた。原因として、夫の言動からくるストレスも否定はできない。

・小学校4年生の時から週2回近所にある公文の塾に通った。自分で問題を解いて〇つけをしてらうことが主のやり方だったが、わからなくても教えてもらえないというのはイヤだったと後に言っている。6年生まで通った。

・本人の抱いている自信の無さに、野球が関係しているように思える。向いていないから尚さらムキにならざるを得なかったし、母親の私にやらされている部分もあったのは確かだ。
不登校になってから本人に聞くと、「打つのは好きだけど、投げるのはコーチ達に言われてもどう直したらいいかわからず、ずっと解けない宿題をつきつけられている感じだった」と言う。

・5年生の時に監督に「才能が無いからやめてしまえ」と言われて泣いたことがあった。
監督は本人が6年生の時に病気で亡くなった。子供をかわいがる方だったが、感情的に怒ることも多かった。

・兄のことは好きだったし、兄みたいになりたい気持ちもあったが、だんだん自分とは合わないところやイヤだなと思うところも見えてくるようになった。が、ずっと〝逆らえない壁〟のような存在。 

(母上のレポートここまで)

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そして彼は高校(結構レベルの高い進学校)に入学するも、
案の定、予想通り、通えず。

母上とともに私の元を訪れ、カウンセリングをはじめます。

一体なぜ
「起立性調節障害」
「慢性疲労症候群」
「副腎機能不全症」
などを次々発症したのでしょうか?

一体なぜ
勉強もスポーツもできるのに、肘は治ったのに
自信がないのでしょうか?

一体なぜ
不登校になったのでしょうか?

この謎に、私は真っ向勝負を挑みます。